【2分で分かる!】2024年に1万円の中の人が変わります!「渋沢栄一」ってどんな人?

まだ少し先の話ですが、2024年に日本のお札が変わります!

新しいお札の顔は、一万円札に近代日本の父と呼ばれている「渋沢栄一」。

五千円には、日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ「津田梅子」。

千円札には、破傷風の治療法を開発した細菌学者の「北里柴三郎」に決まりました。

ちなみに500円硬貨も新しいデザインと素材になって、こちらは2021年度の上半期をめどに発行される予定です。

 

今回は新しい1万円札の顔になった「渋沢栄一」がどんな人なのか、出来るだけ分かりやすく2分でご紹介します。

ポイントは3つです。

日本初の銀行を作った人であり、渋沢が創設にかかわった企業は推定で500社にも上る!
②三菱創始者の「岩崎弥太郎」とは仲が悪かった!お互いの海運会社による熾烈な競争が勃発
③父が偉大すぎて長男は堕落?代わりに継いだ孫が渋沢の意思を受け継いだ

参考にした書籍は、デアゴスティーニ・ジャパン発行の「日本の100人 渋沢栄一」です。


近代日本経済を育てた実業界の父の91年とは?

徳川慶喜に仕えて、その後の人生を変えたフランスへ留学、日本で銀行を設立する

渋沢栄一

渋沢は24歳の時、当時一橋家を継いだ徳川慶喜に仕える身となります

その後周囲から慶喜を徳川15代将軍にとする声が高まる中、実は渋沢は将軍就任に一番反対していたのです。

その理由は徳川家を家屋に例えて、「土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた大きな家のごときのもの」と、徳川家の行く末を予感していたのです。

その2年後に渋沢は、慶喜の弟「昭武」と共にパリへ留学に行くのですが、これが渋沢の人生を大きく変えていくことになります。

産業革命に成功したヨーロッパに降り立った渋沢は、パリではフリューリ・エラールという銀行家に出会って、銀行や株式会社という存在を知り、渋沢に大きな影響を与えたのです。

フランス以外にもイタリアやイギリスなどを訪問していますが、ロンドンではイングランド銀行などを視察しています。


28歳で日本に帰国した渋沢は、その手腕を買われて当時の民部省(後に大蔵省)の財務官として新政府から招かれます。

そこでまず銀行条例を作成して、日本初の銀行「第一国立銀行」を開業させます。

これをきっかけに株式組織の会社設立と育成に力を注ぎ、生涯関係した会社の数は、500にも及ぶといわれています☟

1873年第一国立銀行(総監役)
1879年東京海上保険会社(相談役)
1884年日本鉄道会社(理事委員)
1885年日本郵船会社(後に取締役)
1887年帝国ホテル(発起人総代)
1906年東京電力会社(創立取締役)
1907年帝国劇場(創立発起人)

ざっと挙げただけでも、超有名企業ばっかりです・・・。

渋沢は自身が起こした会社に対して、経営が軌道に乗り始めると手を引いて、また新たな企業の設立に力を注ぐという具合でした。

日本経済のプロデューサーと言われるゆえんです。

これだけすごい人なんだから、さそがし大儲けしたんでしょ?と思いますよね。

しかし渋沢は生涯を通じて「私利の追及はあくまで公益の為に」という理念を貫き、利益を独占して財を築くことは決してありませんでした

第二次大戦後に財閥解体が実施された時、渋沢家の資産は三井や三菱など他の財閥に比べて極端に少なく、財閥指定から外されました。

渋沢の教えを守った渋沢家は「財なき財閥」だったのです。

 

渋沢栄一・・・スゴイ人だとおもいませんか?


三菱創始者の岩崎弥太郎とは生涯敵対関係だった!

岩崎弥太郎

先ほどご紹介した通り、渋沢は常に国の利益の事を考えて、自分の利益には無頓着でした。

そんな渋沢に三菱の創始者である岩崎は、ある時期に経営協力を求めていますが、そんな事に全く興味がない渋沢は所用にかこつけてその場を立ち去ってしまいます。

当然岩崎は激怒してその後二人の対立は、お互いの海運会社を通して熾烈な競争へと形を変えます。

当時の三菱の独占に対抗しようと、渋沢は政府や三井の出資を得て共同運輸という汽船会社を立てましたが、両社は明治経済史上に名高いダンピング合戦(過当な値下げ競争)になってしまうのです。

あまりの激しさに見かねた政府が仲裁に入って、岩崎の死後に両社の合併(日本郵船株式会社)という形で15年に及んだ死闘は終わったのです。

ちなみに岩崎の死後に合併した会社だから、三菱は負けたの?と思いがちなのですが、日本郵船誕生後当初は共同運輸色が強かったみたいですが、やがては三菱系の社員が台頭し、名実ともに共同運輸は消滅することとなったそうです。

渋沢も凄い人ですが、三菱もさすがですね!


父が偉大すぎて長男は放蕩三昧!跡をついだ孫が渋沢家を救った!

スキャンダル

いつの時代にも後継者に悩む偉人はつきものであり、渋沢もその一人でした。

渋沢には長男「篤二」が居て正真正銘跡取りでしたが、放蕩を繰り返し、実業の世界には向かないと深川の渋沢倉庫部の支配人となりました。

公家出身の敦子と結婚して、敬三らの子供が生まれましたが、やがて芸者とのスキャンダルが発覚!

渋沢はとうとう息子の廃嫡を決めてしまいます。

幼い頃に母と死別して、後妻を迎えた父とは離れて暮らしていた長男篤二の思いは複雑だったのだろうと察してしまいますね・・・。

結局長男の代わりに渋沢が跡取りに指名したのが、孫の「敬三」でした。

敬三は幼い頃から生物採集を好んで、高校も農科への進学を志望していましたが、祖父である渋沢に法科を受験するようにと懇願されます。

渋沢は自身が創設した第一銀行を継いで欲しかったのです。

渋沢栄一にとっても、やっぱり孫がカワイイ!

後に敬三は「強制されていたら反発したかもしれないが、おじいさんにただ頭を下げてお願いされては抵抗のしようがなかった」と語っているそうです。

結局法科へ進学した敬三は、その後東京帝国大学を卒業して、1944年日本銀行の総裁になります。

渋沢の願いは孫に無事届いたのです!

その後敬三は大蔵大臣に就任するなど渋沢の後継者としての職を全うしていきますが、その一方幼い頃に好きだった民俗学や生物学も研究し続けており、日本民族学協会や日本人類学会の会長を歴任。

学問発展の為、パトロンとして私財を投じ、柳田国男ら多くの学者へ多額の援助を行っています。

その総額は現在の貨幣価値で100億円近くまで上ったといわれています。

繰り返しになりますが敬三の父である篤二は廃嫡されているのですから、渋沢家の歴史もなかなかスゴイと思います。

 

以上、2024年発行予定新一万円の中の人「渋沢栄一」のご紹介でした。

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