太平洋戦争で使用された日本の戦闘機の中で、一番最後に開発されたのがこの「紫電改」です☟
紫電改はゼロ戦に代わる新鋭機として終戦末期に開発され、昭和19年から20年の終戦までの8ヶ月間で約400機が製作されました。
その時の紫電改の正真正銘のホンモノが、愛媛県愛南町の紫電改展示館に保存されています。
昭和53年7月に愛南町久良湾に沈んでいた紫電改を引き揚げて、一部補修・防錆塗装を施した機体です。
今回私は初めて太平洋戦争に使用された実物の戦闘機を見たのですが、テレビや写真などでは分からない事を沢山知る事が出来ました。
紫電改展示館は愛媛県の最南端にあってアクセスは決して良いとは言えませんが、実際に行った人だけが分かる事も多いですよ。
そんな紫電改展示館に行った時の様子をご紹介します。
現存機を日本で唯一見る事の出来る「紫電改展示館」に行ってみた
紫電改展示館DATA
住所 | 愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城689−1 |
電話番号 | 0895-72-3212 |
営業時間 | 9:00~17:00 |
入館料 | 無料 |
駐車場 | 無料駐車場併設 |
訪問日 | 2019年9月下旬、9時過ぎ |
この紫電改展示館がある愛媛県南予地域(宇和島市から愛南町の沿岸部)は、南予レクリエーション都市という観光リゾート地域になっています。
通称南レクと呼ばれていますが、いわゆる第三セクターが県と国とを巻き込んで一大観光地にすべく多額のカネを投入して開発していたエリアなのです。
多数の公園やプール、展望台やロープウェイなどさまざまな施設が作られましたが、結局どれも長続きせず・・・。
失敗の原因の一つには、愛媛県の県庁所在地である松山市から車で3時間以上かかるアクセスの悪さがあります。
今でこそ宇和島市津島町まで自動車専用道路が出来ていますが、観光開発が行われていた当時は松山市まですら高速道路は出来ていませんでした。
そんなアクセスの悪さとオイルショックなども重なり、当初掲げられていた南レク構想は中途半端な状態で現在に至っています。
紫電改の事をちょこっとだけご紹介
私自身戦争中の日本の戦闘機に関する知識はほとんどなかったで、図書館に行って少し調べてみました。
日本の戦争中における戦闘機で一番量産されたのが、ゼロ戦で有名な「零式艦上戦闘機」です。
1万台以上が量産されており戦争序盤においては無敵の強さでしたが、相手方のアメリカも対ゼロ戦戦略や新型の戦闘機の投入により、日本のゼロ戦の優位性は無くなっていきます。
その様な背景の中で、戦争末期に開発されたのが紫電改です。
先に量産体制に入っていた紫電は実は多くの問題点があり、開発陣もその事を踏まえた上で紫電の改良版にすぐ取り掛かっています。
紫電が戦争に投入された頃には既にゼロ戦の優位性は無くなりつつあり、日本はすぐにでも新型戦闘機の必要性に迫られていたのです。
1944年1月に紫電改のテスト飛行が実施され、1年後の1945年1月に海軍に正式採用されます。
1944年秋からは実質紫電改の生産に入っていて、その目標月産台数は1000機というかなりの規模でした。
しかし戦争末期における資源不足・人手不足・戦局の悪化の影響は大きく、実際戦争終結までに生産された紫電改は約400機程度でした。
紫電改の特徴は、ゼロ戦を上回る速度・上昇性能・攻撃力・防弾性・防火性です。
更にコンパクトでありながら大馬力エンジンを搭載しており、高速機でありながら旋回性能も優れています。
アメリカは紫電改について詳細に調査していますが、その評価はかなりのもので当時のアメリカの戦闘機と比較しても同等以上の性能だとしています。
日本の技術力の高さを改めて感じさせられますね。
紫電改展示館がある、馬瀬山公園に向かう
紫電改展示館があるのは、愛南町御荘にある馬瀬山(ばせやま)公園の中にあります。
この公園も先ほどご紹介した南レク開発の一つです。
公園の他に、高さ107mの「宇和海展望タワー」や「こども動物園」、そして「紫電改展示館」の3つの施設があります。
馬瀬山公園の頂上に展望タワーがありますので、少し寄り道してきました☟
展望タワーまで直接車で行く事はできないみたいなので、駐車場に車を停めて歩いて向かいます。
徒歩数分で展望タワーに到着です☟
この日は快晴でしたが、従業員の方も含めて誰も居ません・・・。
何かおかしいぞと思って展望タワー入口に行くと、こんな張り紙が!☟
耐震診断の結果、耐震基準を満たしていない事が判明して2019年7月9日から営業を停止しているそうです。
今から40年以上前に建てられたものですので、震度6強から7の巨大地震に対して耐えられないとの事。
この愛南町を含む愛媛県は、南海トラフ巨大地震がいつ起きてもおかしくないと指摘されていますからね。
今後この宇和海展望タワーがどうなるかはまだ決まっていませんが、営業が再開される見通しはかなり厳しいでしょうね。
建て替えるにしても今の時代、展望タワーを作れば人が集まる時代ではありません。
おそらく取り壊しになる可能性が一番高いでしょう。
そんな宇和海展望タワーを外から眺める事が出来るのも今の内だと思いますので、記念に写真を多めに撮っておきました☟
私が行った時は誰も居ませんでしたが、タワーが出来た当初は観光客で賑わっていた事もあったんだと思うと、哀愁を感じさせられますね。
展望タワーがあるのが馬瀬山の頂上なので景色は絶景です!
(タワーなんていらないじゃん!っていう突っ込みはしないでね)
紫電改展示館の内部をご紹介
宇和海展望タワーに最後の別れをした後は、いよいよ紫電改展示館へ向かいます。
展示館のすぐ近くからも、宇和海久良湾が一望できます☟
この海の底に紫電改は眠っていた訳です。
紫電改展示館はこちら☟
では中に入ってみましょう☟
展示館の内部は写真の通りです。
館内中央に紫電改実機があって、その周囲に紫電改にまつわる展示品や資料などを展示しています。
本当に小さい展示館なんですが、戦争に実際使用された実機を目の当たりにするといろいろ感じる事がありました。
まず実物の紫電改・・・本当に軽そうなんですよ☟
全ての兵器を搭載した状態での全備重量は約3800kgだそうですが、今の航空機からは考えられない程軽量感があります。
質感といいますか、まるで紙飛行機かと思うぐらいなんですよ。
引き揚げられた後機体を補修しているので当時のものそっくりという訳ではないでしょうが、写真や映像からは決して感じ取る事ができない部分ですね。
戦闘機の復元模型でも、この質感は再現できないでしょう。
この機体でアメリカ軍の無数の戦闘機と交戦していた事を考えると、いろいろ考えさせられますね。
紫電改に限った話では、ほぼ互角(それ以上)に交戦していた後日談がかなり残されています。
紫電改の翼内タンクです☟
特にゼロ戦の弱点として指摘されていたのが、防御関連です。
燃料タンクが薄いので、少しの被弾でも戦闘機にとって致命傷となりかねません。
そんな弱点を補強すべく、紫電改ではタンクに防弾処理が施されて自動消火装置もつきました。
紫電改の機体の部品も展示されています☟
こちらは当時紫電改と3000人のパイロットが配属されていた、松山基地(現在の松山空港)のジオラマ模型です☟
写真の右下にある機体の格納庫のようなものは、現在松山空港のすぐ近くに現存しています☟
この松山基地に配属された海軍第343航空隊は、真珠湾攻撃の時に参謀だった海軍大佐源田実司令が、当時の海軍で特に優秀なパイロットを集結して編成した部隊です。
当時の最新鋭戦闘機である紫電改が配備され日常的に訓練していた事実からも、松山基地の重要性が分かります。
戦後久良湾に眠っていた紫電改が発見された時に、機体の引き揚げに反対の声も少なからずあったそうですが、元343空隊員や遺族からの要望を受けて、参議院議員の源田実元司令と自衛艦隊司令の相生高秀元副長が各方面に働き掛けて、引き揚げられる経緯になったそうです。
その紫電改が引き揚げられた写真も展示されています☟
紫電改の腐食がかなり進んでいて引き揚げ時に機体が折れてしまう可能性もあったので、何重ものロープで慎重に作業が行われました。
この海域には呉軍港空襲などの空中戦で落ちた敵味方の戦闘機が他にも沈んでいて、日本機の機関砲やアメリカの機体に漁網が引っかかって引き揚げられていたそうです。
地元の漁師さんの間では、久良湾に戦闘機が沈んでいる事は前から判っていたんですね。
引き揚げられた紫電改は、昭和20年7月に交戦した結果沈んでしまったとの解説があったのですが・・・☟
図書館で調べた紫電改の本によると、引き揚げられた機体の弾倉をあけてみると4銃のうち3銃は200発の全弾が未発射のままで、残る1銃の弾倉は空っぽでした。
1銃のみで空戦する事はないでしょうから、この銃は元々故障していた可能性が高い。
この事から考えると空戦して落ちたとは考えにくく、機体の故障か燃料不足、又は航法の誤りで松山基地まで戻る事ができなくなって不時着したのではないかとの事でした。
そもそも空戦して墜落したのなら、プロペラがもっと曲がっていてもおかしくないんですよね。
展示されているプロペラの曲がり具合は、まさに機体が不時着した時にプロペラが海面に接触したような感じなんです☟
もしこの紫電改の搭乗員が生きていれば引き揚げが大々的に報道された時に名乗り出るはずですが、それがなかった事から、不時着してから終戦までの間に戦死してしまったか、もしくは名乗り出られない事情があるのかもしれません。
どちらにせよ、この紫電改がどういう経緯でこの海に眠っていたのかは未だに謎のままです。
紫電改展示館の入り口には、お土産やグッズが売られていました☟
ここでしか購入できない紫電改仕様のグッズが多数ありました。
ちなみに私が買ったのはこちら☟
明治初期に脚気による病死が続いていた海軍内において、ご飯と合うバランスの良い食事を考えた結果生まれたのがこの「海軍カレー」です。
この海軍カレーを食事メニューに採用した結果、海軍内の脚気による死者はほぼ居なくなったぐらいの偉大なカレーなんですよ。
今でも海上自衛隊では、毎週金曜日にカレーライスを食べる習慣になっているそうです。
そんな海軍カレーを自宅で食べてみました☟
レトルトのビーフカレーですが、あっさり風で美味しかったですよ。
当時の海軍の方はどんな思いでこのカレーを食べていたんでしょうかね。
そんな事をふと気にしながらの自宅でのランチタイムでした。
紫電改展示館の紹介は以上になります。
日本で唯一現存する紫電改は、引き揚げられた久良湾の方向を望みながらゆっくり翼を休めています。
紫電改に少しでも興味を持たれた方は、ぜひ愛媛県愛南町の紫電改展示館に行ってみてはいかがでしょうか。